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依田氏は、平安時代末期に信濃源氏の一族として、信州・小県郡依田之庄に興った。信濃守源為公の六男「依田六郎為真」で、今の長野
県小県郡丸子町に、依田城を築いた。 |
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南北朝から室町時代にかけ、この信濃一帯も群雄割拠の戦乱に明け暮れた。中でも群を抜いていた隣地、甲州の武田勢は、依田一族をも従え、義胤ののちの依田出雲守正信は、武田信玄のもとで武功を挙げていった。それによって甲斐国東河内領宮木(今の山梨県南巨摩郡中富町)に領地を賜った。 |
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天下は、織田から豊臣に代わり、秀吉の北条氏攻略によって伊豆も戦場になった。つづく関が原の戦い、大阪冬の陣、夏の陣と戦乱が広がり、落人としての依田氏は、しばし隠遁生活を余儀なくされた。
そして三代目佐次兵衛貴長になり、ようやく名乗りを上げることが出来た。今見る瓦葺の母屋と土蔵の一部は、この貴長により元禄年間(1688〜1704年)、約13年間の歳月をかけて完成したと云われている。 |
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幕末になり、下田にペリーの黒船が来航し、幕府に開国をせまると、隣接する松崎もその激動の波をうけた。時代が揺れ動く中で、依田家十一代佐二平は人一倍深い感動を覚えた。そこで彼は、文明開化への足がかりとして、新しい教育に力を注いだ。 |
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出品として注目された生糸を、地域の産業の基盤にするため、官営の |
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例えば(いずれも明治40年代受賞)
このような先駆的な製糸事業は、日本の近代化に大いなる功績をあげ、富岡(群馬県)、室山(三重県)と共に「日本の三大製糸」とうたわれた。佐二平の起業意欲は、明治の文明開化そのものであった。
海運会社設立(沼津―松崎―下田―横浜)や、銀行経営などは、当時の中央の財閥が行った国づくりの地方版といえるもので、明治初期に於ける地方の資本主義経済の確立をめざしたものであった。 |
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しかしながら、主たる製糸業は大正時代に入ると、アジア諸国の安い生糸価格競争によって次第に衰退していった。それに重ねて、大正12年に関東大震災が襲った。 |
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