大沢温泉ホテル 依田之庄 依田之庄への道のり
清流と竹林の古里
依田之庄物語
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依田氏は、平安時代末期に信濃源氏の一族として、信州・小県郡依田之庄に興った。信濃守源為公の六男「依田六郎為真」で、今の長野 県小県郡丸子町に、依田城を築いた。

その城こそ治承四年(1180年)(木曽)源義仲が旗揚げした所であった。しかし義仲挙兵が、やがて源頼朝によって破られると、義仲に組し
依田一族も各地に逃れ散っていった。

時代は下って、南北朝初期(1330年)ごろ、飛騨の国にいた依田義胤が、再びこの依田之庄に来て城を築いた。彼こそが伊豆大沢の依田家の先祖と伝えられている。

   
 
           
 

南北朝から室町時代にかけ、この信濃一帯も群雄割拠の戦乱に明け暮れた。中でも群を抜いていた隣地、甲州の武田勢は、依田一族をも従え、義胤ののちの依田出雲守正信は、武田信玄のもとで武功を挙げていった。それによって甲斐国東河内領宮木(今の山梨県南巨摩郡中富町)に領地を賜った。

『甲斐国誌』によると、大永から弘治年間(1520〜1560年)頃で、依田正信はここの屋敷内に曹洞宗円通寺をつくり、晩年は出家した。

正信の後は、和泉守正治、正房、正義と続くのだが、やがて武田勢が甲斐から駿河に進出すると同時に、依田一族も駿河の要衡、江尻城(今の静岡県清水市)の防備をまかされた。

しかしながら、天正10年(1580年)武田勝頼が、天目山に於いて織田・徳川の連合軍に破れ、武田家が滅亡すると、依田家は遠く奥伊豆・大沢の地に落ちのびていった。

 
 
     

天下は、織田から豊臣に代わり、秀吉の北条氏攻略によって伊豆も戦場になった。つづく関が原の戦い、大阪冬の陣、夏の陣と戦乱が広がり、落人としての依田氏は、しばし隠遁生活を余儀なくされた。 そして三代目佐次兵衛貴長になり、ようやく名乗りを上げることが出来た。今見る瓦葺の母屋と土蔵の一部は、この貴長により元禄年間(1688〜1704年)、約13年間の歳月をかけて完成したと云われている。

この頃には、すでに近郷近在をとりしきる名主元締の地位を築きはじめていた。依田家の生業は、幕府への年貢米の上納や、背後にひかえた天城山の山林開発・薪炭生産であった。そこで伐採した材木は、屋敷の前を流れる那賀川を利用し、松崎湊まで運び、更に江戸や上方にまで回漕した。

回漕には、自らの持ち船である八百石の『金毘羅丸』を利用した。

   
       
       
 

幕末になり、下田にペリーの黒船が来航し、幕府に開国をせまると、隣接する松崎もその激動の波をうけた。時代が揺れ動く中で、依田家十一代佐二平は人一倍深い感動を覚えた。そこで彼は、文明開化への足がかりとして、新しい教育に力を注いだ。

まず初めに、自邸内に『大沢塾』をひらき、村民への啓蒙活動をはじめた。明治維新以前の元治元年(1864年)であった。さらに明治5年(1872年)には、松崎江奈村に『謹申学舎』を設け、そこに旧会津藩の筆頭家老「西郷頼母」を校長に迎え、漢学、外国語、算学などを学ばせた。

ここ松崎のような奥伊豆の辺境の地に、維新のあといち早く各地より有能な人材を集め、教育振興をなしとげたことは、大変注目されている。いま松崎町岩科にのこる岩科学校(国指定文化財・明治13年建築)は、佐二平を初め、地域の人々の教育への情熱と理想が、強く反映し創立されたものである。

かれは目覚めた地方のリーダーとして殖産振興にもはげんだ。当時欧米諸国への輸

 
 

出品として注目された生糸を、地域の産業の基盤にするため、官営の
上州富岡製糸工場に6人の子女を派遣した。彼女達が2年間の技術
習得をおえ帰郷すると、佐二平は明治8年、松崎に製糸工場を建設
した。じつに静岡県下初めての製糸工場であった。

翌、明治9年には、工場を大沢の自邸内に移し、三階建ての大蚕室
を設けた。(ページ上記写真) この製糸業への情熱は海外各地で評
価され、『松崎シルク』の名を世界に広めた。それは目を見張る成績
であった。

 

例えば(いずれも明治40年代受賞)

  • 米国 セントルイス博覧会  銀賞
  • 同  アラスカ・ニーコン太平洋万国博覧会 金牌
  • 英国 ロンドン日英博覧会  金牌
  • 伊国 イタリア万国博覧会  名誉賞状

このような先駆的な製糸事業は、日本の近代化に大いなる功績をあげ、富岡(群馬県)、室山(三重県)と共に「日本の三大製糸」とうたわれた。佐二平の起業意欲は、明治の文明開化そのものであった。 海運会社設立(沼津―松崎―下田―横浜)や、銀行経営などは、当時の中央の財閥が行った国づくりの地方版といえるもので、明治初期に於ける地方の資本主義経済の確立をめざしたものであった。

一方、政界においては、静岡県賀茂・那賀郡長、県議会副議長そして第1回(明治23年)帝国議会衆議院議員に選出された。佐二平の事業は、ここまでは順風満帆であった。

 
 
       
         
 

しかしながら、主たる製糸業は大正時代に入ると、アジア諸国の安い生糸価格競争によって次第に衰退していった。それに重ねて、大正12年に関東大震災が襲った。

横浜の渋沢倉庫で、輸出するばかりになっていた大量の生糸が、すべて灰燼にきし、壊滅的打撃を受けてしまった。震災の翌年大正13年に佐二平は、無念のうちに亡くなった。まもなく昭和に入り、経済恐慌、貿易不振などが続いて松崎製糸工場も規模を縮小、やがて廃業へと追い込まれていった。

一時は数百町歩といわれた依田家の山林田畑も、その多くが事業負債の処理のため売却され、くわえて昭和20年の敗戦、つづく農地解放によって、今お目にいただく母屋と三棟のなまこ壁のお蔵のみが、かつての繁栄の名残を物語るだけとなった。

昭和36年、これら古建築を指定文化財に、との話があったが、当主依田敬一(故人)は、民家建築学の権威「今和次郎」(早稲田大学教授)先生と計り、「菅原篤」(神奈川歯科大学教授)、「加藤角一」(芝浦工業大学教授)両先生らの指導により、時代に先駆けて『民家建築の観光施設応用』をなしとげて今日に至っている。

 
           
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